層について

半年ほど前、大学院への緊張感と倦怠が強かった頃で、ヴィタミン注射をよく打っていた。そのために近所の診療所へと通っていた。半年間あいだがあいて、再び訪れた。ヴィタミンではなく、予防接種である。診察室に通されて、あのとき大丈夫でしたか、注射の後、と尋ねられた。忘れているだろうとばかり思っていたので、ああ、と頓狂に声があがり、そのあとにつづく否定の言葉がなんだかそぼろのようにこぼれてしまう。
半年行かなかったのは、ひとつには注射を打たずとも大丈夫だったというのもあるが、もうひとつには、つまりその「大丈夫でしたか」というのが関わっている。ああいう注射は右、左、と替えて打っていくらしいのだが、わたしはちょっとした理由から左腕をあまり人の目にさらしたくない。だから右腕を出して、再び右でと頼んだ。針の刺さり方がなんだかいやに沁みるように痛んだ。それを察するように医師が、痛いですか、前に刺したところに再び刺すと傷のかさぶたからやるような感じになってしまうときがあるんですよ、と言う。それを聞いているうちに、目の前が真っ赤になって、くらりとした。息が水飴のように口からこぼれて、倒れかかり、横にさせられた。医師と看護婦がなにかを言うのが水のそこで聞くような具合に耳に入った。ぼんやり、そういえば意識がなかったのに耳だけは聞こえていた、と言っていた人がいた、などと思い出していた。
八割方は入ったらしいのだが、すべてはいれられず、わたしは会計を済ませ、貧血の重みだけがまだ脚に残るまま帰った。医師に言われる痛さの理由を聞きながら、わたしは皮膚の傷をやぶり入ってくる針を思っていた。それが絵を結ぶ前にくらりときた。
傷跡は、記憶が悪意を込めて凝固したものである。傷跡やかさぶたになっていない記憶であれば、たとえかなしいものであれ、耐えられるのだろう。ただ、その傷跡の部分を貫通するその一瞬、越えてしまえばたいしたことのないものとしても、その瞬間にまがまがしい色彩が襲ってくる。痛みではなく、もっと肉の内側から拒絶するものがのぼりつめてくる。いや、これはもちろん記憶についてのはなしだ。会計を待ってそんなことを考えていただけだ。待合室はクリスマスソングがオルゴールの音色でかかっている。道の日差しが年末じみている。ガラスに貼られた雪の結晶のシールがウニの模様のように映る。

秋っぽい

先日同期のひとに「セピア色の女の子」という不思議なキャッチコピーを頂いた。わたしは今年二十三歳で、しかしあまりそういう実感はなくて、いまだに十四歳くらいの気分でいる。周りの人々が、二十五歳くらいになったら、などというのを聞くと、まだ十年以上あるじゃないかという意識がくるくる回っているのに気づいて、はっとする。「セピア色の女の子」というのは、癇癪持ちで傷つきやすいらしい。むかし、影で言われた「ぼーだー」という略語を思い出した。

寒さのせいなのか、それがきわだってつめたさとして伝ってきたせいなのか、音が裏側へと回り込んでしまいなにも残らない感じになってしまったからなのか、ひどい不安を感じた。夜が溶けて、ペンキのようにたれていく気がした。こんな日には誰かが死んでしまうのではないかと思った。親しい人でも、ましてや知っている人でもない、けれどもその死を聞いてふと、なぜその人に会っていなかったのだろうか、と悔やまれるような、そんな他人が死にそうなのだという強烈な予感がとろけていた。不安はしばしば感じるが、死ぬとかそういうことを思うことはだんだんにすくなくなってきた。だからこそ不安はいやに尖っていた。

ローカルタレントとかご当地アイドルとか言われる人々かなんとなく好きだ。特に東北地方のそういったひとたちが。「岩手のアイドル」というひとのブログをこの春頃から見ていて、膜の印象を心地よく思っていた。油膜の、あの不穏な虹色に似たものがあって、アイドルとしての義務感めいたものとか、職業意識とか、感情とか、生活とか(それは日常とはまた別の)、そういったものがからまりあって、ことばの割にはずいぶんとさみしい印象を落としていたのである。春先だったか、雪景色の車窓と共に短くひっかき傷のように立ったことばが、油膜を透明にしてひろがった。感情だけむきだしになって、ほとんどそれを編み上げる神経の形がのこされていた。
そのことをなぜだか、ふと、思い出した。

貪欲に生きても、不安とかさみしさは結局同じところに根を張っているから、また別の問題なのかも知れない。むかし考えていた生活の観念が浮かび上がってきたので、そうやって砕いてみる。

背表紙は群青よりも濃く

屋根裏の本棚がくずれかかっていた。物置になってしまった部屋である。そんなところの本棚だから、整理のために置かれているものの、家からそれらを隠すように雑多に入れられている。背面を支えている板がそうやってつめこみすぎていたせいだろう、歪んでいて、移動式なのにぐらぐらと危なっかしい。それを父と直しながら、ふと昔祖母が住んでいた家の窓を思い出した。

それを見つけたのも父で、窓枠とガラスを叩いて確かめながら、曲がっている歪んでいる、と言っていた。わたしはまだ十七歳だった。四月のことだったと思う。夕食をたべた後だったというのに、なんだか空腹ともわだかまりのすがたをかえた感情ともわからないものにぐいぐい圧されて、電車に乗って市街地へと出ていた。駅から五分ほどの安い中華屋でラーメンを食べた。すすっていた。酒精にふくらんだ声でしゃべる背広姿の男たちが四人ほど、きっとずっと続いているのであろう話を交わしながら食べていた。明るい声だった。けれども湿った土のようなものを感じて、それがいやでもなかったのだろう。わたしもいつか、こんな風になるのだろうと思っていた。
食べてから、また電車に乗って帰った。十二分に一本、プラットホームで時刻表を見て、そう覚えた。寺のある駅で降りた。線路沿いに歩いて、海岸に出た。遠回りをして家へ戻り、扉を開けると重く交響曲が聞こえた。父と母が聴いていた。玄関が暗く、ひんやりしていた。

昔読んだ本の背表紙を見るように、ふとそんな記憶がかすめた。細かなことはだいぶ忘れていて、景色と結びついた感情ばかりが強く残っている。板を圧したり、抱えたりしていると、それらは透明になった。骨組みだけになって、わたしの内側に食い入ろうとした。
何冊かの本とCDを再び自室に戻そうと選び、本棚を直す。なるべく記憶のしみついていないものがいい。それを読んでいた時期のことを覚えていると、なんだかやりきれなくなるものが多い。覚えていても、もう白昼夢のような曖昧なものならばいい。そんなものの中から、もう一度読みたいものを選んでいく。高校生の頃に使っていたのだろう古典文法の教科書も、なぜとなくそこに重ねた。さて、と電気を消して部屋を後にするとき、父がこれを読んでみろ、と一冊渡してきた。『西方の音』という本だった。

(夢)

夢にて。一人の女の子の話を聞いている。柱時計がこの頃おかしい、と言うので、どんなふうに、と聞いたときのことだ。わたしのお父さんとお母さんがなくなってから、それから十二時になると十五回も鐘が鳴るようになってしまったの。彼女が言い終わらぬうちに、わたしの耳にはその声と共に鐘の音も入り込んだ。お父さんとお母さんのたましいが合わさっても十四回であろうに、なぜ十五回なのだろうか、という瞬間通り抜けようとした疑問に対して、ああそうか、この女の子のたましいも入っているのか、と妙に強く納得した。

靴の砂

中庭のすみっこで話しているうちに暗くなってきた。四時をすこしまわった頃に立ち止まり、ぽつりぽつりとことばを交わし、気づくと五時になり、六時になり、学生たちはキャンパスを離れていった。その脚だけが、きれいにまっすぐ動いているのを目の端でみとめた。自販機に飲み物を補給するべく業者がトラックを走らせる頃、夜間の学生は校舎へと向かい、からからと笑う男の声だけがどこかで転がっては止まり、また蹴飛ばされた。かすかなかわいたつながりのことばを、ずいぶん長いことかわした。以前も、ほとんど同じ場所に立って、やっぱりこんなふうに長々話していたことがあった。この人ではない人と。その人は卒業して就職し、わたしはふとしたことで連絡するのが怖ろしくなった。そのうちに彼女の息づかいも忘れた。
もう一人が加わって、三人で話した。すこしずつだが確実にキャンパスに残る人は減っていき、太い幹の銀杏を囲むベンチに座る一人の女性がなぞめいて映った。夜間の学生たちもまた消えて、警備員が懐中電灯を手にしてつまらなそうに階段を照らし歩いた。廊下の窓の鍵がかかり、次々に部屋の灯りがはがれおちていく。こんなふうに動いているんだ、と思った。
帰宅すると、注文していた本が届いていた。岐阜県から送られたものだった。紙袋を加工してつくった封筒を丁寧にはがし、そこに刻印されているclose to meという文字がフラットでありながらもさみしく静かに映った。注文票にそえられた「ありがとうございました」の文字に、ふとこの送り主の生活を思い描こうとしていた。

(日付不明の書き残したもの)

集合住宅の前には産地直送のトラックが駐まり、素早く八百屋ができあがる。入り日が欠けはじめて、鎖のようなかがやきを落とす。それを受けて、集う客の顔に影が波立つ。わたしはそれを横目に歩いた。すぐ隣には遊具がある。さび付いたブランコで、近所の高校に通う女の子が二人、スカートをふともものあいだにうもらせるように挟んで(しかしぴったりとつけるのではなく、なんだかひだを形作るような具合にして)こいでいる。二人とも目立つタイプの子ではなかろう。ちらと見て、ふとそう感じた。その思いを裏付けるような、落ち着いた笑い声が弧を描いて、わたしの左耳にすうっと吸い込まれた。聞こえた。彼女たちのからだは建物の影に溺れている、薄い苦しい時間が流れている。

波千鳥

恒例となった「焼きまんじゅう」を、屋台に買いに行く。お会式は今日まで、と聞いていたのだけれども、よく確かめてみると朝法要を終えるまでで、つまりいまはもう「その後」なのである。来る途中も、昨夜の屋台がひしめくような、あるいは鱗のように連なる感じはなく、閑散としている。その代わり、寺のメインロードとでもいうのだろうか、お堂までの道に移っている。祭りが終わって、疲労のせいで引ききることも出来なくなった波がゆるくさわさわ残っているさみしさを横目に「焼きまんじゅう」の店を探す。「高崎名物」と書いてあるはずなのだ。そうやって見回しているうちに、昨夜(というよりは今日の夜中の)万灯を一緒に見た子を駅まで送り、かえりたくないかえりたくないとだだをこねるのを無理に押し込め、来た道を戻り、モニュメントのように力強くしがみついているごみ袋や、くずしていく屋台や、まだ解消されない酒盛りや、つかれがまじりはじめて水溶性に変わっている笑い声はすでに祭りの終わりだったのかもしれない、などと思った。
むかし、ある推理モノのアニメを見ていたとき、犯人が自供する際に「祭りはつくっている時がいちばん楽しいですからね」と語っていて、わたしはまだ小学生だったというのにいやに力強く頷いていた。だがいつしか、その「楽しい」という感情の持つ熱っぽさがいやになってきて、祭りの後のすずしいくすぐったさのほうにこそ愉しみを見いだすようになった。ここ二年くらいは、そんなことを力強く言っている。
そのアニメについての悪口を、わたしは学科のひとたちと足利駅の駅舎でしていた。わたしの代が企画した合宿でのことである。はやりの「ゲリラ雷雨」とも夕立ともつかない雨脚を幾度も見て、駅へと駆け込んだ。電車を待っている内にグループ行動だというのに、すべての班が集まってしまった。それで尚も待ちながらの話である。なにかの折りに、先輩がそのアニメについて「もう本当にどうしようもないくらいくだらない動機での殺人がある」と言い、もしかしたらそれは「シャイン」と書いたのをローマ字に読んで勘違いをするというあれではなかろうか、と尋ねると、まさにそれだと笑いあった。あれも一種の「祭り」だとすれば、いまになっていちばん思い出すのは、そういったそのときは気に留めていなかったようなことだけで、きれいな波を広げている。雨と駅舎だけが、匂いも音も含めて浮き上がり、生々しく残っている。
焼きまんじゅう」を食べてから、匂いを求めてお堂に向かった。お経の響く堂内にこもる匂いがすきなのだ。なにも考えずに浸った。