秋っぽい

先日同期のひとに「セピア色の女の子」という不思議なキャッチコピーを頂いた。わたしは今年二十三歳で、しかしあまりそういう実感はなくて、いまだに十四歳くらいの気分でいる。周りの人々が、二十五歳くらいになったら、などというのを聞くと、まだ十年以上あるじゃないかという意識がくるくる回っているのに気づいて、はっとする。「セピア色の女の子」というのは、癇癪持ちで傷つきやすいらしい。むかし、影で言われた「ぼーだー」という略語を思い出した。

寒さのせいなのか、それがきわだってつめたさとして伝ってきたせいなのか、音が裏側へと回り込んでしまいなにも残らない感じになってしまったからなのか、ひどい不安を感じた。夜が溶けて、ペンキのようにたれていく気がした。こんな日には誰かが死んでしまうのではないかと思った。親しい人でも、ましてや知っている人でもない、けれどもその死を聞いてふと、なぜその人に会っていなかったのだろうか、と悔やまれるような、そんな他人が死にそうなのだという強烈な予感がとろけていた。不安はしばしば感じるが、死ぬとかそういうことを思うことはだんだんにすくなくなってきた。だからこそ不安はいやに尖っていた。

ローカルタレントとかご当地アイドルとか言われる人々かなんとなく好きだ。特に東北地方のそういったひとたちが。「岩手のアイドル」というひとのブログをこの春頃から見ていて、膜の印象を心地よく思っていた。油膜の、あの不穏な虹色に似たものがあって、アイドルとしての義務感めいたものとか、職業意識とか、感情とか、生活とか(それは日常とはまた別の)、そういったものがからまりあって、ことばの割にはずいぶんとさみしい印象を落としていたのである。春先だったか、雪景色の車窓と共に短くひっかき傷のように立ったことばが、油膜を透明にしてひろがった。感情だけむきだしになって、ほとんどそれを編み上げる神経の形がのこされていた。
そのことをなぜだか、ふと、思い出した。

貪欲に生きても、不安とかさみしさは結局同じところに根を張っているから、また別の問題なのかも知れない。むかし考えていた生活の観念が浮かび上がってきたので、そうやって砕いてみる。