教訓はなく感嘆符

ある街に行ったら古本市が開かれていた。いくつかのお店を回っているうちに多和田葉子の「きつね月」が三百円で売られていて、これは、と勇んで、ください、と硬貨をつかんで声を掛ける。パラフィン紙というのか、ちゃんと掛けられていたのですこしばかりうれしい気分で、その屋台じみた市を出た。わたしはあの紙が、たいてい読むとき邪魔になって剥がしてしまうのだけれどもすきなのである。それから用事をすませて、食事をして、この店のハンバーガーは99円ではなかっただろうか、いつから120円になったのだろうか、と訝りつづけて、崩した一万円を、つまり千円札九枚と硬貨を手にまた市場へ向かった。わたしには古書店に対する恐怖があって、一万円札なんかだしたらにらまれるだろう、つっかえされるだろう、売ってくれないだろう、とかなり切実に悩んで「きつね月」一冊ですませたのである。古本屋に対する恐怖心(たとえばイヤホンをつけたまま入れないとか)の一方で、それなりの愛好(たとえばカバーのない文庫本の棚や、褪せていたり、いまはあまり見かけない色合いのカバーが並ぶ本棚を見ると妙に落ち着くとか)もあるので、それが市となっていれば見逃したくないのである。でも、一万円札一枚だと「いまこれしかないよ、あとはもういいね」と千円札何枚かを渡されて、ぷいと背を向けられるのではないかという妄想がその場を去らせたのである。しかしいまは千円札もあるのだから、と喜々と回って「夏目漱石論」(はすみしげひこ)とか「マンダラ紀行」(森敦)とかを買っているうちに、店と店のあいだをぐるぐる回っていた。回っているうちにこんどは、地理関係がわからなくなってきて、あの店にはあれがあったはずなのだが、と思い戻ると見知らぬ店で、ここでなければでは近くのこちらにと動くともはやわけがわからなくなって、ぐるぐるぐるぐる歩き回っていた。
家に帰って「きつね月」をよく見ると、カバーにかなりの汚れがあって、しかもよれていた。状態はあまり気にしないので別にいいのだけれど、水分、推測するにワインをこぼしたのではなかろうかという汚れに買ったときはまったく気がつかなかったことに疑問を抱いて、なんというか、パラフィン紙ってこういう効果もあるのかー、と発想を変えて頁をめくる。で、300円の次の頁に尖った文字で105とあるのを見る。