波千鳥

恒例となった「焼きまんじゅう」を、屋台に買いに行く。お会式は今日まで、と聞いていたのだけれども、よく確かめてみると朝法要を終えるまでで、つまりいまはもう「その後」なのである。来る途中も、昨夜の屋台がひしめくような、あるいは鱗のように連なる感じはなく、閑散としている。その代わり、寺のメインロードとでもいうのだろうか、お堂までの道に移っている。祭りが終わって、疲労のせいで引ききることも出来なくなった波がゆるくさわさわ残っているさみしさを横目に「焼きまんじゅう」の店を探す。「高崎名物」と書いてあるはずなのだ。そうやって見回しているうちに、昨夜(というよりは今日の夜中の)万灯を一緒に見た子を駅まで送り、かえりたくないかえりたくないとだだをこねるのを無理に押し込め、来た道を戻り、モニュメントのように力強くしがみついているごみ袋や、くずしていく屋台や、まだ解消されない酒盛りや、つかれがまじりはじめて水溶性に変わっている笑い声はすでに祭りの終わりだったのかもしれない、などと思った。
むかし、ある推理モノのアニメを見ていたとき、犯人が自供する際に「祭りはつくっている時がいちばん楽しいですからね」と語っていて、わたしはまだ小学生だったというのにいやに力強く頷いていた。だがいつしか、その「楽しい」という感情の持つ熱っぽさがいやになってきて、祭りの後のすずしいくすぐったさのほうにこそ愉しみを見いだすようになった。ここ二年くらいは、そんなことを力強く言っている。
そのアニメについての悪口を、わたしは学科のひとたちと足利駅の駅舎でしていた。わたしの代が企画した合宿でのことである。はやりの「ゲリラ雷雨」とも夕立ともつかない雨脚を幾度も見て、駅へと駆け込んだ。電車を待っている内にグループ行動だというのに、すべての班が集まってしまった。それで尚も待ちながらの話である。なにかの折りに、先輩がそのアニメについて「もう本当にどうしようもないくらいくだらない動機での殺人がある」と言い、もしかしたらそれは「シャイン」と書いたのをローマ字に読んで勘違いをするというあれではなかろうか、と尋ねると、まさにそれだと笑いあった。あれも一種の「祭り」だとすれば、いまになっていちばん思い出すのは、そういったそのときは気に留めていなかったようなことだけで、きれいな波を広げている。雨と駅舎だけが、匂いも音も含めて浮き上がり、生々しく残っている。
焼きまんじゅう」を食べてから、匂いを求めてお堂に向かった。お経の響く堂内にこもる匂いがすきなのだ。なにも考えずに浸った。