門を抜ける

夜、歯を磨きながら鏡に映るじぶんを見ていた。むかし歯の磨き方が下手、と散々歯医者に罵られたせいで、それ以来やたらと凝って磨くようになった。おかげで罵られることはなくなった。いつも通りにやっていて、ふと、奥の方を磨くときなど、手首をひねらせて、ちょうど歯ブラシの柄が上になるようにするとなんだかラップ音楽をするひとのマイクを持つ感じになると気づいて、いろいろとやってみた。こういう時間が案外好きで、ついでにラップのひとつでもやってみられればいいのだが、残念なことにひとつも知らないので断念した。

十一月頃、週に二三回、日付の変わる頃合い、最寄りの小さな駅からとぼとぼ歩いていることがあった。アルバイトの関係で遅くなることが多かったのだ。わたしの家はそこから大きなお寺を通るのがいちばん近道で、長く急な石段や、だだっぴろい境内、墓場などを抜けていく。夜中のしんとしたなかで、石の呼吸がみなぎるような静けさは、たまに心配される「注意すべき人々」など決していれやしまい、という信頼を満たしていた。だが、石段を走って上り下りするトレーニング中の人々が、そのうちわたしに襲いかかりはしまいか、と考えることもあった。ボクシングの練習をしているひとを見ると、そういう懸念というか妄念はさらに加速していた。特に、腿を高く上げながらゆっくり後ろに下がり、その後、急にダッシュをする、というトレーニングにどうしても慣れられなかった。彼らがわたしの脇を過ぎるとき、あまり冗談に出来ないほどの恐ろしさが瞬間からだをつらぬいて、いっそ共に走り出そうかと思うほどだった。被害者意識は夜中の方がやはり強いようで、それでいて彼らがもうだいぶ先を走って、また戻ってくるときなど、がんばれよなどと思っていた。
ある日、門をくぐろうとして、その脇でなにか言い合っている若者二人を見た。諍いにしては変な動きをみせると思って近づくと、その諍いもリズムがあって、どうもラップを練習しているらしい。わたしが脇を通るとき、「よ、それがおまえのほんとにやりたいことかよ」と言っていた。歌としての練習なのか、即興で出来るようにする練習なのかはわからなかったが、しかしなぜとないおかしみがあって、笑うわけにもいかず神妙な面持ちで石段をのぼった。それがおまえのほんとにやりたいことかよ、と言われて考え込む人の、あの表情である。

後日、その話を会ってそれほど経ってないひとにした。え、お寺の門の脇でラップの練習? なんか面白いですね、それ、とひとしきり言ったあとで、そのひとが、そのひとたちは売れそうですか、と聞く。ちょっと予想していなかった問いで、「え、でも、そのひとことしか聞いてないし」「あ、そっか、楽器とかないものね。楽器とか演奏できそうだった」「いや、それはわからない」「売れそうでした?」「ん、CDとかで?」「あ、CD出していないんでしょ」「だと思うよ、だってお寺の横で」「あー、でも売れなさそうかなあ」わたしはそのときの会話を意外とはっきり憶えているのだが、なんともディスコミュニケーションな上にループしている、そんなことをふと思い出して、気づいた。