水の読書

先日誕生日を迎えた、もう十年来の友人と話をした。電話を通してであるが、会話の呼吸の緊張とやわさが、なんだか前と変わっているようにも、もうずっと前からこんな具合になっていたようにも、記憶を透かして二つの感情をくゆくゆとのぼらせた。それでも会話がなめらかに続くのは、この十年来という年月があるのだろうか。あるいは、基盤は失っていなかろうという思いを共にかたく握りしめているからだろうか。その信ずるところのこの基盤も、ほろほろくずれて、いつか過去という共有した記憶として輪郭のみを残し、会話ははっきりとしたすがたを浮かばせようとするために交わす降霊術めいたものになるのだろうか。



週に一回、パウル・ツェラーンという詩人の作品を読む会合に出席している。ツェラーンの詩にたいして、研究や学術の切り口で読めばどうなるのかはわからないが、単に読書の視点から見ていたとき、この詩人が会話について、並々ならぬものを見ていたのではないか、という気がしてくる。そこで「会話をする」ということは、しゃべる、まくしたてる、口にする、ことばをなぞる、話す、声に出す、などといったこととは厳密に分けられてあって、交わすことばがそのレベルに届いたときには、一種異様なかがやきを伴い、口にする者をもその波で濡らしていくのではないか。詩集『誰でもない者の薔薇』のなかの「チューリッヒ、シュトルヒェンにて」は特にこの感を強く抱かせる。会話をすること、または会話における最高級の段階。それは静かなもので、さらには一対一でなければ叶わぬことなのかもしれない。その「わたし」と「あなた」の根へと降りていけばどうしても研究や学術の層を踏まずにはすまされなくなるが、そこでは合一すること、周辺のとろけること、広がること、かたまること、そういった内部からしみ出て表出される変化の予感がはりつめている。



わたしはそんな風に、人と話したことがあったことを思い出した。やはり十年来の、しかし彼ではない、別の友人である。

この誕生日を迎えた友人と、こんな風に会話が出来たことがあったろうか。思い出してみる。もっとも、会話の段階が、必ずしも優劣の評価に働くわけではない。彼とのはなしは一見かわいていて、さらりとして、あまり触れていないようなのに、わずかな距離を保ちながら歩き続けるように、のびていく。思い出してみる。それだけは変わっていない。



夜半、丸谷才一の『横しぐれ』を読み終える。「だらだら坂」という作品のモノローグに、彼の語り方を感じた。小事件についてのどうにもあやしいモノローグ。ぴったりとついてきて、こちらの耳の奥にすうっとことばを注ぐような語り口。それがわたしを暗い坂道に立たせ、動かしていく。読み終えてから、そんな想像にふけり、再構築してみる。こころあそばせる。坂は闇に包まれていた。街灯も少なく、ずっと続いている。

誕生日を迎えた彼とは、坂を歩いて話したことは一度もなかった。彼もまた、よく喧嘩の話をした。からまれた際のことを話した。わたしたちは水辺を歩いていた。彼の住むのは、隅田川沿いの街だった。この辺に坂はないよ、どこに行くにも坂はないんだ、そんな風に言う。わたしの街には坂しかないんだ、彼の言う前にわたしは言った、あるいは後に。